昭和45年03月01日 特別奉修委員
今朝の御理解を頂いておって思います事は、天地一如と、天地が一つの様に金光様の御信心の素晴らしい所は其処にあるのであり、とりわけ合楽での信心の素晴らしさと云うのは其処にあると思うんですよね。と地が一つになって喜びあえれると云う事。松の根方に、大きな亀がこうはっておる。その亀の所に鶴が飛んで来る。もうその松のバックと言うのは、素晴らしい事だと思うんですけれどね、そのそう云う一つの雰囲気ですかね、そう云う雰囲気の中に、亀がおり其処に鶴が飛んで来ると。
まあ亀を大地にするなら、鶴が天上をねその鶴と亀とが、舞遊ぶ様なおかげと言うのが私は金光様のご信心のおかげ感でなからにゃいかん、ね、金光様の信心のおかげちゃ、はあ、お願いしましたら、こげな病気が助かりましたと、もうお願いしましたら、こう言う難儀な問題が助かりましたと云うだけでは、そう云うおかげは金光様の御信心の、いわゆるおかげ感からは大分遠いものだと、ね。
いわゆるそのうほんとに金光様の信心頂いて、おかげを頂くということは、今朝から頂きますように、もうほんとに金光大神あって神が世に出たと仰る様に、神様金光大神もまた神様あっての金光大神でおありになった様に、もそれこそ天地と同根とこう仰る、ね。金光大神の信心が天地と同根であると云う様な所に、お道の信心ぶりと云うものが段々その信心ぶりを発揮していかなきゃならんと、ね、で、
それをなら又、ずっと身近に云うと、どう云う事になるかと言うと、合楽の教会があって、私どもがあると云う事になる訳です。ね。親先生があって、私どもがあると云う、ね、いわばその鶴と亀とがこの舞遊ぶ喜びそう云う目出度さ、そういうめでたい雰囲気が、生まれてくる。其処に私は此の天地一如と言う様な事が言えると思うね。是は私がいちいちなら、こりゃまあ取次者の立場として、はぁも熊谷さん、熊谷さんあなたがあるから合楽はたっとるとは言やしませんけれどですよね。
それと同じものがあると云う事何時も、なら熊谷さんもなら親先生あって熊谷があると云われるだろうとこう思う様にですよね、そう云う口には言わんけれどもそう云う一体のものですね、私は金光様の御信心のいわゆるおかげ感だと思うですね。ただ親先生のお取次ぎを頂いて、おかげを頂いたと言うだけではなくてです、そこにその神が世に出たと神様が言われる様なですかね、また神様あって金光大神があったと。
いわゆる親に懸かり子に懸かりあいよかけよで立ち行く、ね、神も助かり氏子も立ち行くと云った様な、あいよかけよの道と云うのは、天地一如と云う事だと思うんですよね。天と地が一つになる其処にその良いものが其処ら、是は生まれて来るものは限りがない、ね。そう云うね私どもの所謂おかげの見方ですね、所謂おかげと云うものの見方は、そう云う様なふうに私どもがあって行きよるかどうかと云う事なんです。
先ほど波田野さんが、あのお届けされます様に、昨日のあの様に永瀬さん所で謝恩祭がありまして、皆さんああしておかげを受けられた。少し時間が延びましたからもう最終のバスは無かろう様にあった。それをまあ秋永先生ですか、熊谷さんと波田野さんを、そんならお送りしましょうと云うて送られたら、植木かどっかで最終のバスに追い越して、ま、それに乗り換えて帰らして頂いたと云う事なんですけれども。
その中にですね、もう本当に合楽と云う大きな家族の中の一員であると云う私、をしみじみ感じたと波田野さんが言っておられます。私は合楽で一番素晴らしい事は、此処だと思うですね。よそから来て一番初めにたまがる事は、もうあまりにも信者が、是だけの信者が、一つになっておると云う事は、親先生を中心にしてもう一つの大きな家庭の様だと。まいわば肉親と云うかね、近親感と云うかねそう云う様なものが溢れておると云うのが合楽のま、特徴の様に言われておる。
それがま良い時もありゃ悪い時もあるですたいね。だからけれどもそのそう云う所にですね、私はその天地一如になって行く道があると思うんです。ね、そげんあんたもう合楽でおかげ頂かん時には、何処どこもあるけんで、合楽の神様でなかでん、しゃっち何々様もあるけんで、と云う様なおかげさえ頂きゃいいと云った様な信心じゃなくてね、そう云うもう切っても切れない中が育って行くと云う事だと。
そこから生まれて来るおかげを、私はお道の信心で言うおかげだとこう思う。おかげ感、そう云うおかげをそう見らにゃいかん。はぁお参りしてこう言うおかげを頂いた、と云うのは、もうそりゃ金光様じゃなくても良かちゅう事です。ね、其のおかげを通して例えばその親先生と信者と、合楽と皆さんとと云うのがですね私あの、ね、本当に親先生あって今日の熊谷が御座いますと、いやぁ本当に久保山先生がね、
私の信心は、ま言うなら育てて下さったと、ね、もうとにかくあれだけ十何年の間あれだけ、それこそ親身も及ばない御用奉仕がでけられたから、ね、あの辛抱強さがいわば今日の合楽がある、と云うても良いと云う事がです、ね、例えばなら原さんがあって、合楽があり、光橋があって合楽があり、同んなじような事が言えれる中と云うものが、育って行かなければならない。
そこん所をですね、私は合楽の場合は、皆さんが段々その密なるものにして行かれておる所に、合楽で信心の値打ちがあると。ね、其処でそのま例えばま今日井上さんがああ云うお届をして居られる様に、昨日竹葉会で分の車で、上滝さんと誰でしたかね、二人あ高橋さん、ね、高橋さんを二人送らせて頂きながら、まあ本当にま嫁の座にあり、または家内の座にある、しかも信心のまだ若い方達がですね。
あの方達の悩みを是から私しばっかり話してから、あの人達が悩みがあるに違いはない、ある事は間違いない、あの顔色を見ただけで分るち。ね、だからあの人達の事を聞いてやれる私になる。十分聞いてやれる私にならせて頂きたいと云った様な願いを今日なさっておられますがね、そう云う所からです、ね、もうほんとにこう何かが、通うて行くでしょう、ね、これは信者同士の場合でもそうなんです。
そこにきなんと云うかね、いやほんとに親戚以上の、ま親戚のような雰囲気がね、信者同士の中にも生まれて来る。しかもそれはなら合楽の信心を中心にして、云うなら親先生を中心にして、そげな信心が育って行くと。そこん所がですね、例えば私がなら一人一人にもう原さん、ほらもうあんたどん一家族があるけん、合楽があるとばいのち、いっちょいっちょ言う訳にはいかんち。
それはもう亀はもう松の根方におるだけですから、けれども親先生のおかげで、親先生のおかげでと云うてなら、さ、鶴の方が亀ん所へしょがはないでしょう。鶴の方が言わにゃ仕方がない、はぁもう親先生のおかげで、て云うたっちゃまあそうたい私のおかげじゃろの、と思わん。ね、も親先生のおかげ、てあた方が言いよる時には、私自身もあぁたのおかげでと、言いよる時と思うてですね。
私はその天地一如の信心と云った様な信心が育って行かなければいけないと思うですね。ほら親先生のおかげでそうたい、私がお取次ぎしよるけん、助かりよるとばいと云う時には、もう合楽のごひれいは地に落ちる時です。もしそう云う事があったとするならばですよ。ね、だから私の心の中じゃあぁた方が、もう本当に七重の膝を八重でも折りたいごとある気持ちがあるなら。
私自身の中にも皆さんに、手を付いてお礼を言いたいごとあるものが、ある時なんだ。ね、其処に初めて通う通いあうものが生まれて来る。ね、いわゆる天と地が一つになって、喜び合う時と云う。その喜び合う時に其処から生まれて来るものは無尽蔵。限りがない、ね、そこん所を、私はま、あいよかけよの道と云う様な事になって来る。あいよかけよの中から生まれて来る。
神も助かり氏子も立ち行く、皆さんも助かり、親先生も助かって下さる、そのおかげが、私はおかげ感だと思う。ね、今日は金光教で言うおかげとはと、ま、いうなら意味の様な事を皆んなに聞いて頂いたですね、ね、金光教のおかげ感、ね、だからお願いして病気が治りましたと、お願いしてこんな道が開きましたと云うだけなら、決して合楽でな事はいらんて、何なん様でも良かて、訳でしょうが、ね、
けども金光様の御信心の其の一番有難い所は、自分が助かる事によって、親も助かって行く、自分が助かる事によって、神様も助かって下さる、と云う所にですね、いわゆるおかげ、おかげの見方と云う、ね、金光教の信心のおかげの見方と云うのは、、そう云う見方をしなければならん、またそう云う実をあげて行かなければならんのですよね。
どうぞ。